08






 かたかたと、まだ右手が震えている。みっともない、と清華は思った。きっと、TPFに入ったらだれもが通る道なのだ。怯えてなんかいられない。
 落ち着こう、とゆっくり息を吐き出す。ぽん、と無造作に肩を叩かれ吃驚して清華は手の主を見上げた。
「瀬崎班長……」
「隣、いいですか?」
「あ、はい」
 すとん、と隣に腰を下ろした瀬崎の座高は本人の身長が高くないために清華とほとんど変わらない。
「大丈夫でした?」
「ええ、まあ……」
 大した怪我をしているわけでもないのに、どうして瀬崎はそんなことを聞くのだろう。
「知ってました? 内藤さんって、緊張が本番の前じゃなくて後に来るんです。変ですよねえ」
「はあ」
 いきなり何を話しているのだろう。くすくすと、内藤にか清華にか分からない笑いを零して瀬崎は続けた。
「遥さんは逆に、本番の前に緊張で駄目になるタイプなんです。いつだったか、緊張のし過ぎで僕に泣きついてきたこともあったっけ」
「はあ」
「神アさんは、どのタイプですか?」
「え? うーん……」
 そんなこと、考えたこともなかった。確か怜は本番前が駄目でよくおなかが痛いと言っていた。自分はそれをなだめる側だったから、本番前と言うことはない。かと言って、本番の後に何か異常が現れるということもなかった。勿論、今手が震えているのは緊張のせいではない。
「……あまり、緊張とは縁がなかったみたいです」
「やっぱりですか。僕もそうなんですよ」
「瀬崎班長は……たしかに緊張とは縁がなさそうですね」
「神アさんもそう見えますよ」
「そんなこと」
 そう答えたところで、瀬崎が腰を上げた。
「じゃあ、僕はそろそろ行きますね。内藤さんに報告しなきゃいけないんで」
「ああ……途中で寄り道とかしないでくださいね」
「しないつもりだったんですけど……どうしようかなあ」
「瀬崎班長」
「あはは、冗談ですよ」
 本当に、人をからかうのが好きなようだ。若干の疲労感と共に溜息を零す。
「まあとにかく、気分も晴れたみたいですし。後は適当に休んでてくださいね」
「はあ」
 瀬崎の猫っ毛が歩くたびにふわふわと揺れる。その姿が見えなくなったところで、清華の後ろにいた男性隊員が口を開いた。
「こっえー……まじ瀬崎班長怖え」
「はい?」
「だってさ、普段あれだけふざけてて飄々としてんのに、こういう時はしっかり班員見てるんだぜ? 怖いだろ」
「そういうものですか」
「うんうん。俺には絶対無理」
 まあそうだろう、と思って清華は元の位置に座りなおした。一班は班長が帰って来るまでこのまま待機だ。今のうちに出来る限り休んでおこう、と清華は目蓋だけを下ろした。

 珍しく寄り道をせずに副隊長室へと向かう。この後は彼女とデートの予定が入っているのである。この際、この後が実際には明日以降の事であるなどと言うのは放っておく。無理矢理に勝ち取ったものだろうがなんだろうが、褒美には変わりない。
 そう思いつつ早足に角を曲がったところで、思いがけない人物に出くわした。
「うわっ……山口さんじゃないですか」
「あんたこそ珍しいじゃないか。そんなに急いで、何処に行くんだ」
「報告ですよ、ほ、う、こ、く。山口さんは帰りですか」
「ああ。……ああ、そういえば神アはどうした」
「山口さんまで神アさんですか。流石にみんなと一緒に待機してますよ。ちょっと落ち込んでたみたいですけど。ちゃんと受け答えもできてましたし、大丈夫でしょ。それに、なにかあったら内藤さんがちょっかい出すでしょうし」
「やっぱり、そうか」
「内藤さん、手だけは早いんですから。今回は珍しく悩んでるみたいですけど」
「へえ」
「ほーんと、そのままテロリストの前でも隙だらけになって殺されちゃえばいいのに」
 そういうことであれば、あのひとだって折り合いが付けられるだろうから。そんなに馬鹿な男だったなんてね、と哀しそうに笑って。
 目の前に山口が無言で片眉を吊り上げたのを感じて、瀬崎はいつものように笑って見せた。
「なーんて、冗談ですよ。本気にしちゃいました?」
「……なら、いいが。今のは笑えないぞ」
「相変わらず山口さんはお堅いなあ」
 冗談の通じない人はこれだから、と笑って別れる。
 ああ本当に苛々する。願うだけの自分自身に。自分勝手に彼女を振って、また自分勝手にひとを好きになったあの男に。それでもまだあの男を諦めきれない彼女に。
 苛々する。
 そうしたどろどろした感情をすべて無表情と言う名の仮面の下に押し込めて副隊長室のドアを開ける。
「瀬崎です」
「おー」
 ドアの先はヤニ臭い。かなり煮詰まっているのだろう。内藤がよほどのことがない限りニコチン含有の煙草を吸わないことは付き合いの長さから、というより遥の話から知っている。そんなこと知りたくもなかったが、こんなことでも遥は嬉しそうに話すのだ、自分に聞かないという選択肢はない。
「どうした、黙って」
「いーえ。とりあえず1班は重傷者1名、軽傷者3名で済みました」
「おお」
 がりがりとメモを取って煙草を灰皿に押し付ける。そして卓上の書類に目を止めてちっと舌打ちを一つ漏らした。
 そんないかにも忙しい雰囲気を醸す内藤で遊んでみたくなった。
「神アさんは何ともありませんでしたよ」
「……へえ」
 そいつはよかった、と微かに顔を上げて内藤は言った。その顔もすぐ書類に戻される。そのことがまた、苛ついた。
 ホルスターから拳銃を引き出して男の眉間に照準を合わせる。引き金に指をかけ、内藤を見据える。
 内藤は、ただ淡々と書類をさばいていた。かりかりとボールペンの擦れる音が響く。しばらく続き、少し止まって、また響く音を切り裂くようにセーフティーレバーを下す、がちゃりという音が鳴った。
「亮」
 内藤がずいぶんと昔からの呼び名を使うときは、だいたいプライベートと判断している時だ。仕事には関係ないと思っているとき。そのことにも苛々する。
「亮、俺は仕事中なんだ」
「知ってますよ、だからその仕事から解放してあげようと思って」
「有難迷惑だ。ついでに言うと、おまえにかかずりあってる暇もねえんだ」
「そうですか」
 ますますいらついて、引き金に掛けた指に力を込める。ふっと思い出したように内藤が呟いた。
「ああ、遥に連絡入れねえとな」
 その言葉に、瀬崎がぴくりと反応する。わかりやすい奴め、と内藤はかすかな憐憫を含めて思う。昔からの付き合いで、弱点も何も知りつくしている相手に脅迫なんて無意味なのに。
 そういうところがまだ瀬崎が未熟で、天邪鬼と言わせる由縁なのだ。はあ、とため息をひとつついて内藤は顔を上げた。瀬崎はまだ引き金に指をかけてはいたが、殺意や殺気は消えている。
「ほら、報告終わったんならさっさと出てけ。俺は忙しいんだ」
 そう疲れたように言って内藤は瀬崎を部屋から追い出した。
 閉じた扉を背に、瀬崎は唇を噛み締めた。軽率だったなんてことは分かっていた。それにしても馬鹿馬鹿しい。ただ一言、彼女の名前を出されただけで動揺するなんて。切り札を持つのはあの男であって自分ではないのだ。敵う訳がない。その思いが瀬崎を焦らせる。
 灰色の、どこまでも無機質なドアの向こうで、内藤は溜息を吐いた。そんなに遥が好きならさっさと告白してしまえばいいのに、あの弟分は何をためらっているのかその気配すら見せない。いや違う。そう思った己の思考をすぐさま内藤は否定した。逆だ。内藤は瀬崎にこそ遥を、と思っているのだ。自分では彼女を幸せにはできなかったが、瀬崎ならできる。内藤だって、遥に幸せになってほしいのだ。口に出すことなどできないが、それ故にひたすら願う。
 しばらく瞑目したのち内藤は何もなかったように再び書類をさばき始めた。

 半ば駆けるように鍛練場へ向かう。待機場所に戻るのも億劫で、副班長の日馬に携帯で流れ解散でいいと連絡した。一刻も早く頭を切り替えたい。そんなことを考えつつ角を曲がったところで瀬崎を軽い衝撃が襲った。
「きゃっ?!」
「っと、すみません。……え、遥さん?」
「亮ちゃん? どうしたの」
「いえ、ちょっと」
 ならいいんだけど、と遥は心配そうにいった。そんなに心配されるようなことがあっただろうか、と瀬崎は考えて、隊に入ってからは自分が滅多に走ったりすることがなかったのを思い出す。それは、心配もされるだろう。まして大仕事も終わったのだから、急いでいる方がおかしい。
「本当になんでもないですよ、ちょっと考え事をしてただけで」
「あら、珍しい。何考えてたの」
「え? ……今日のこととか、……内藤さんのこととか」
「それこそ珍しい事じゃない! 明日雨が降らないか心配」
「降ったら行かないんですか」
「冗談に決まってるでしょ」
「なら良かった」
 笑って言った遥に瀬崎も安心したような笑みを浮かべる。
「じゃあね、亮ちゃん。あたしはまだ仕事あるから」
「はい。頑張ってください」
「亮ちゃんはしっかり休むのよ、いい?」
 ひらひらと手を振りながら釘を刺され、瀬崎は苦笑してしまった。そうだ、明日疲れ切った顔で遥とデートに行くわけにはいかない。シャワーを浴びてさっさと寝よう、と鍛練場に向けていた足をエレベーターの方へ向けなおした。








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