06






 緊張をほぐそうと飲んだ水すらも尾崎はうまく飲み込むことができなかった。
 スーツって意外と堅苦しい、と軽く襟元を緩めて息を吐く。よくサラリーマンはこの窮屈な洋服に10時間以上も身を包んでいられると感心する。いや、窮屈だと思うのは自分がこの服を着慣れていないからか。たしか、初めて高校の制服に腕を通した時も似たような感覚を味わった気がする。
「大丈夫か、ナオ。緊張してる?」
「ユウさん」
「さん付けなんてしなくていいよ」
 そう笑って、尾崎の先輩の、ユウと呼ばれる男は言った。さらりとスーツを着こなした姿はいつも通りなのだが、いつもかけている銀縁の眼鏡を何故か今日はかけていない。そんな尾崎の疑問を先回りしたかのようにユウは言った。
「眼鏡は、人の印象をわずかではあるけれど変えるからね。君も、覚えておいた方がいい」
「へえ、知りませんでした」
「ああ、って、じゃあ、君は何故今日コンタクトなんだ?」
「ああ、今眼鏡が壊れちゃって。修理に出してるんです」
 偶然ではあるが、尾崎も今日は眼鏡をしていなかった。仕方なく、いつもはしないコンタクトレンズで我慢をしている。行きつけの眼鏡店からは代わりの眼鏡を渡されたのだが、デザインが気に入らず使ってはいない。それでも一応、万が一の時のためにスーツの内ポケットには入っている。あの眼鏡が恋しい、と尾崎はこっそり溜息を吐いた。確かにコンタクトは便利だが、いつも鼻の上に感じる重みがないとどうも不安定で、落ち着かない。
 もう一回溜息を吐くと、こちらに近づいてくる男が目に入った。
「ユウ、こんなところでどうしたんだ? いま、あっちで議論をやってる。一緒に行かないか」
「いいですね」
 ユウに話しかけてきたのは、40くらいの、顎に髭を生やした男だった。尾崎とユウが175センチくらいだから、男は170センチちょっと、というところか。
 そういえば、この男もユウのことをユウ、と呼んだ。やはり本名は知らないようだ。尾崎も、彼の呼び名しか知らないし、彼もそのはずだった。“グループ”に入るとき、自分の名前から二文字とって、それ以外は教えないのだと教わったからだ。尾崎直仁の直仁からとって、ナオ。名字からとるとザキしか思いつかず、それは昔、小学生のころ読んだ漫画のキャラクターのあだ名だったからやめた。
 そういう訳で、尾崎が知る中でユウという名の人物像は、30手前のエリート、というものだった。きっと学歴も高いのだろう。薄い上品な茶色の髪をきっちりと整え、今日こそかけていないが銀縁の眼鏡をかけた姿は尾崎にそう思わせるには十分だった。
 そろそろこの好感が持てる先輩との話も終わりか、と尾崎が思った時だった。ユウが肩越しに声をかけてくる。
「ナオ、君も参加しないか? いい経験になると思うし……2号、いいですよね?」
「ああ、私は構わない。どうだ?」
「いいんですか?!」
「勿論。ああ、こちらは2号。彼のグループは人数が多くてね、番号で見分けてるんだ」
「よろしく。ナオ、だったかな」
「よろしくお願いします」
 願ってもいない機会だった。そんな今にも飛び上がりそうな尾崎の様子を見てユウがくすりと笑う。
「じゃあ、行こう」

「経済界からも日本は今からでも独立すべきと」
「地方の過疎化は一向に改善されていない!」
「そもそもあいつに連合に参加するということが理解できていたとは」
 初めて会合に参加したナオは、白熱した議論に目を白黒させ、そして、ここはものを生み出す場なのだ、と感じた。それはほとんど無意識に近いような漠然としたものであったけれども。
「ユウ! 遅いじゃないか、君を待っていたんだ」
「今行きますよ!」
 遠くから大柄な男が手を振る。苦笑交じりに手を振り返しながらユウは叫び返した。
「ナオ、行くよ」
「はあ」
 ユウの後について大柄な男のグループに混ざる。矢継ぎ早に飛んでくる遅いじゃないか、という声に、ユウはどれだけ顔が広いのだろうか、とナオは思った。
「ユウ、彼は?」
「後輩のナオです。いい経験になるかと思って」
「私たちが参考になるといいがね。これからよろしく」
「よろしくお願いします」
 差し出されたごつごつした手を握り返す。今日は後何度これが繰り返されるのかな、と少々気が遠くなった。








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