雨を、こう






 しとしとと格子の外の地面を雨が叩いていく。穏やかな雨の夜。体にまとわりつくような湿気も、まだ暑くはないからけして嫌なものではない。
 雨は好きだ。この現世にあってそうではないように見える世界も、そとの世界と実は地続きなのだと教えてくれる。
 だが、そんな雨の日の良さを周りはちっとも理解していない。
 ばばさまたちは、雨の日はお客の入りが悪いから嫌だという。私としては、大歓迎だ。一人でゆっくり、心行くまでこの気持ちいい空気を堪能できるのだから。
 姉さまたちやほかの女の子たちは、髪がまとまらなくて嫌だという。好いた男がいるわけでもないのにどうして、皆競ってきれいに飾ろうとするのだろう。そう言ってはいながら、私だってそれなりに整えてはいる。でないと、ばばさまに怒られてしまう。
 ふと誘惑に駆られて、格子の外へ手を伸ばす。幸いばばさまが来る様子もないし、少しなら平気だろう。手のひらに、甲に、指に、手首へとつたう雨が心地いい。ひやりとしていて、これだけはそとと同じ、と思うと自然頬が緩んでくる。
 閉じられた襖の外から軽い足音が聞こえてきて手を襦袢のうちにひっこめる。おそらく、いや確実にばばさまのものだろう。わざわざ部屋まで足を運んでくれるほどの友人などいない。ばばさまにこんなことをしていたと知られたら……。考えるだけでも恐ろしい。
「お客だよ」
「はい」
 こんなに気持ちのいい雨の日なのに。夜になってからは雨の薫りも濃厚になり、しっとり穏やかに過ごしたいと思っていたのに。よほどその男は酔狂に違いない。普通ならば、雨の日は外に出るのが億劫になる、と姉さまたちも言っていた。
 ばばさまが出て行ったあとで、唇を尖らせる。その行為に無意味さにすぐやめてしまったけれども。
 部屋を出る直前、そっと後ろを振り返る。見つめるのは格子窓の外、白く尾を引く雨模様の空。帰ってくるときにまだ降っていますように、と願う。

「青鵐と申します」
「おう、入れ」
 間髪いれず返された声は若いものだった。別に驚くことじゃない、ここには色々な人間が出入りする。それにしても、どれだけ気がせいているのだろうか。部屋の隅に置かれてある筈の赤い寝台を嫌でも思い出す。それをさっさと脳裏から追い出して顔を上げた。
 畳の目から目線をゆっくりと上げる。しゃら、とかんざしが軽い音を立てる。視界に入ってくる男の体。立てた右膝の上に右肘を置き、骨ばった手で猪口を持つ。その手がすい、と口元に運ばれる。見たことも無いような、綺麗な顔。これならわざわざ花街なんて来なくても女は寄ってくるだろうに、と思う。やはり酔狂な男らしい。
「あおじ、って言うんだな。聞いたことないが、由来はあんのか」
「鳥の名前です。この店では皆鳥の名を付けられます」
「へえ」
 そう言ってまた一口酒を煽る。しずかに喉仏が上下する。畳の上に飲み乾した猪口を置き、肘に頭を乗せ、僅かな間、目を閉じる。
 その一連の動作が綺麗で、流れるようだと思った。ここが花街で、そばに買った女がいるということさえ忘れているような、気取らない仕草。静かな男だ、と思う。
 この店は、この界隈で最高級の店、と言うわけではない。最底辺でもないけれど、堅苦しい儀式ばった物はない。まあ、中流、というところだろうか。幼少のころからここにいる女の子はそこそこの教育を受けられると思っているし、女たちの間には暗黙の掟、と言うべきものもある。
 たとえば、仕事に情を持ち込まない。相手をする男一人一人に情をかけていたら、こちらの身が持たない。質問をしない。これは、私たち自身と、店を守るために。今のご時世、わざわざこんなところに来るのは身分を隠したい人間だと相場が決まっている。不用意に男の仕事にかかわる質問をしたら、何かあった時この店と私に疑いの目が及ぶ。危ないことは御免だ。
 中流のこの店ですらこんな決まりごとがあるのだ、一流の店はもっと面倒なことも多いのだろう。だからか、ここに来る男たちはすぐに行為を求めてくるものが多い、と言うか普通だというのに。
 この男は、悠々と酒を飲んでいる。
 すい、と男の切れ長の目が開いた。顔の向きは変えず、流し目でこちらを見てくる。
「こっちに来い」
「……はい」
 ああやっぱり、と思った。落胆のような、懼れのような。この男も、中身は他の男と変わらない。落胆したような、傷ついたような。
 男の横に座りなおす。
 目の前に畳の上に置いてあったはずの猪口が差しだされた。
「え?」
「酌をしろ」
 差し出された猪口と、男の顔をまじまじと見つめる。その様子に、男が少し眉根を寄せた。
「どうした? 酌ができないわけじゃないだろ」
「はい」
 慌てて、空の猪口に酒を注ぐ。男がそれを煽る。雨がまだしとしと降っている。
 そんな音がしっかり聞こえるくらい静かだった。ここに慣れた私ですら、ここが高級な店だと勘違いしそうになるほどに、静かだった。
「どうした、なんか聞きたいことでもあるのか?」
「え、ああ、その」
「俺は構わねえぞ、女に聞かれて機密を喋るほど酔っちゃいない」
 そう言ってまた猪口を煽る。ぐ、ととうに乾いた拳を握りしめる。
「抱かれないのですか」
「抱くさ。それを飲み終わったらな」
 抱かなかったらあんたらに悪いだろう、と銚子を顎でさしながら男は言った。
 その言葉にすこし安心する。お客に買われて抱かれなかったなんて遊女の名折れだ。
同時に、ああやはり、とも思ったのを誤魔化して。
 やっぱり静かな男だった、と目を閉じて、思う。
 あのあと、銚子をきっかり一本飲み乾した男に、何も言わず抱かれた。お互いに一言も話さなかった。声も極力あげなかった。きっと嫌いだろうと声を我慢して、それに気づいた時の男の顔が目に焼き付いている。他の男のように独り善がりではない、だが事務的な行為にむしろ落ち着かなかったのは青鵐の方だ。こんなの知らない、と訴えたくなった。そんなみっともない真似をしたら、すぐにここから追い出されてしまうだろうけれど。
 その男は今、気怠く寝転がる青鵐を余所に、また銚子から手酌で酒を飲んでいる。猪口を傾け、酒を注ぐ。また猪口を傾け、酒を注ぐ。
 眺めるのにも飽きたので、青鵐は体を起こした。髪はどうしようもないが、衣服はもう整っている。すると、ちょうど男も酒を飲み乾したのか、立ち上がった。三つ指をついて教わった通りに頭を下げる。
「また、お越しくださいませ」
「そいつは嫌だな」
「え」
「俺が求めてるのは都合のいい女であって、いい女、遊女じゃねえんだ」
 都合のいい女。一般的にはいつでも切れるような関係の事だろうか。だがそれは遊女にも簡単に当てはまる。というより、それでなければ遊女ではない。
「言っとくが、世間で言う都合のいい女じゃねえぞ。俺にとって、だ。もっとも、あんたがそれになってくれるっていうんなら話は別だが」
 にやり、と危険な、そして綺麗な笑みを男が浮かべる。
 あ、まずい。前に姉さまたちが言っていた気がする。女を情報源にしようとする男には気を付けなさい、と。
 と、それに気づいたのか男が言った。
「別に、なんか聞き出せとかじゃねえよ。俺が来なかった間、何があったか聞きたいだけだ」
 それなら、と思う。同時に、それでも駄目だ、と思う。
「ま、また、返事を聞きに来るさ」
 くしゃりと頭を撫でて、男は部屋を出て行った。撫でられた頭に手をやりながら、考える。考え込む。
 危険を冒して、男に来てもらうか。贔屓の客ができるというのはいいことだ。売る側にも売られる側にも。顔を見知っているということはそれなりの安心感があるし、定期的に金を落としていく客というのは店側も都合がいい。
 でも、もし自分が失敗をして、自分、ひいては店に迷惑がかかったら。考えるだけでも恐ろしい。
 けれど、だけれど。あの男は、何も質問しなくていいと言っていたではないか。ただ、自分がいない間、この狭い世界で何があったか聞きたいだけだと。それならいいじゃないか、とも思う。
 悶々としたまま、時間だけが過ぎて行った。

 それから何度か男は来た。ただ酒を飲み、変わったことはあったかと聞いて、帰る。質問などは怖くてしたことがない。今までより姉さまたちの話に聞き耳を立てるようにはなったけれど。淡々とした日常の中の、僅かな逢瀬。そう思っているのは、こちらだけだったとしても。
 その話を切り出されたのは、そんなある日のことだった。
「身請け話? 私に?」
 満面の笑みでばばさまが頷く。いったいいくらで落籍れることになっているのだろう、と少々下世話な疑問さえ浮かんでくる。
 身請け。この花街にいて、意識しなかったことはなかった言葉だ。だがそれを、自分に向けられるとは思っていなかった。大抵、それは耳の聡い姉さまの誰かが仕入れてくる、どこどこのお店の誰それがこんな男に落籍れただの、ばばさま達が話す教訓のようなものだった。自分がその対象になるなんて、考えたこともない。
「どちら様に……ですか」
 しばらく呆けた後、やっと絞り出たのはそんな質問だった。いつもだったら目を三角にして怒るこんな質問にも、今日は余程機嫌がいいのか、すらすらと答えてくれる。
「ほら、二週に一度、必ず来て下さるお客様がいるだろう?あの――」
 聞きながらも、冷徹にその客が誰か目星は付けていた。脂でてかてかと光る顔をした、汗っかきの中年男だろう。天地がひっくり返っても、あの静かな男が身請けなんてしてくれないことは分かっている。つきん、と微かに胸が痛む。
 その次の、雨の晩に男はやってきた。いつものように銚子と猪口を手に、窓際に腰掛ける。
「なんか変わったことはあったか」
「いえ……」
 正直に言って、落籍される騒ぎで、今週は殆ど自由な時間が取れなかったのだ。そんな青鵐に男がふうん、と声を漏らす。
「珍しいな、いつも何かしら話すのに」
「申し訳、ございません」
「いや、いいさ。あんたにも事情があったんだろう」
 話さなければ、いけない。強く、思う。分かってはいたのだ。今日男に話さなければならないなんてことは。ただ、話すと男はもう二度とここには来てくれないだろうから。心地いい時間を無くしたくはなかった。
 とくとくと、男が猪口に酒を注ぐ。その手を見て、心を決める。
「この度、身請けされることとなりました」
 頭を下げているから、今男がどんな顔をしているかはわからない。耳元で簪がなる。いやに心臓の音がうるさい。怖くて、目を閉じた。
「……そう、か」
 じゃあ、もう此処へは来れなくなるな。
 そう、静かに男は言った。初めての時と違い、ざあざあと雨が音を立てている。
「何故、ですか」
「もう誰のものになるか決まったのに、他の男の影がちらついてちゃいけねえだろ」
 顔を、あげろ。
 優しい声で命令する。その声に逆らえなくて、顔を上げた。男が苦笑する。
「なんで泣いてる」
 涙なんて、とっくに枯れたと思っていたのに。頬を、鼻の横を伝う生暖かい其れはたしかに青鵐が鳴いているということを示していた。
「ま、これからはそうやって泣けもしないんだろうから、さっさと泣きくれちまえ」
 これはただの情けだ。憐みだ。だが、そうと分かっていて縋らずにいられない自身はなんと弱いのだろう。男に近寄ることもなく、声を上げることもなく、ただ、はらはらと涙をこぼす。
 二本目の銚子を飲み乾したところで男は立ち上がった。そろそろ青鵐も泣き止んだ頃だった。
「じゃあ、帰る」
「今後とも、御贔屓に」
「そいつは、どうかな。ま、あんたはいい女だったが」
「え」
 そう言って、男は帰って行った。ざあざあと、空っぽになった青鵐の中を雨の音が素通りしていった。








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