白虎と禮~ 「ねえ」 とても情事の後とは思えない軽やかな声を背中に受けながら床の衣服へと手をのばす。 「ねえ、禮~」 「……なんでしょう」 繰り返される語に首を回す。嗚呼、今の己は酷く嫌な表情を浮かべていることだろう。何の表情も浮かんでいない、能面のような顔。もしかしたら、目の前の彼女は驚くのかもしれない。それでも、なぜか表情を作り出すことをしようとは思わなかった。いつもなら面倒を避けるため迷わずするはずの行為であるのに、今はそれがひどく煩わしかった。 振り返ると、酷く上機嫌な顔の己の仕える神の姿が目に入る。己が振り返ったことで、その笑みは更に深くなる。 「あのね、禮~」 ぱたぱたと、白い足が敷布を叩く。美しい金の瞳が細められ、白い手が伸ばされる。細い指がするりと己の頬を撫ぜる。 「私、あんたのそういう顔、大好き」 好きも何も。今の己は何の感情も浮かべていないであろうに。そう思いつつ目を見張れば、元々笑っていた口が嬉しそうに弧を描いた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− 白虎と朱雀 「なあ白虎」 己より大分低い位置の赤色に。 「何故なのだ?」 いつになく真剣な瞳で問われ。 「何故、青竜は人に肩入れするのだ?」 白虎は咄嗟に、何も返すことができなかった。 今日は天宮で二人、人界の様子を眺めていたのだが、己の同胞が消えゆく様に、朱雀は怒りよりも静かな疑問を抱いたらしかった。 「なあ」 「昔、青竜に聞いただけだけど」 朱雀が一度気にしたことは徹底的に気にする性格だということは熟知している。その性格が災いしてよく青竜と諍いを起こすのだ。そのこと自体は構わないのだが、何分青竜は自分のことを言いたがらない上、逃げ上手である。一方的に朱雀が捲し立てているだけともいえる口喧嘩の際近くにいると、体よく青竜にお守りを押し付けられて逃げられてしまうのだ。 白虎としては極力そんな朱雀のお守りは御免である。それこそ玄武に任せる。だが、今日問われたことは己が答えなければいけないような気がした。おそらく青竜は自分では言うのを嫌がるだろうし、玄武はそのことを知ってか知らずか青竜に聞けというのだろう。結局、彼女に教えることができるのは己しかいないのだ。 こちらを期待に満ちた目を見つめる朱雀を視界に入れて、あの日の自分もこんなふうだったのか、と何処かぼんやり白虎は思う。 「生ける者に寿命があるよう、種にも寿命はある。それは神として永い寿命を持つ私たちも変わらない。その中である種が滅えるのなら仕様がない。人が如何に関わっていようと、それが天命。天命に逆らうことなどできない。それは人も同じ。私は、たとえ人が滅えても何も感じないだろう。だが人は面白い。だから私は人を見る、って」 話していた間上げていた視線を下に戻すと、くりくりした瞳が驚いたようにこちらを見上げていた。 「……よく、分からない」 でも、と。何処か吹っ切れたように朱雀は前を向く。 「そういう考え方もあるのだ、ということだけは分かった」 そう言って穏やかに人界を見つめる姿はいつも喧嘩で天宮を破壊している姿とはつながらない。だが、白虎は彼女にこのように神として世界を見つめる一面があることも知っている。否、白虎だけではなく、天界の皆が。 そして、その姿を知っているからこそ皆思うのだ。喧嘩などせず、いつもこうしていればいいのに、と。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− 青竜と琉央 「琉央」 武骨な手が頬を撫ぜる。その手も、初めて会った時より大分衰えた。流石の神も永い時を経れば老いる。だが、彼が老いたのはそれだけが理由ではない。 神が唯一罹る病。薬すら存在せず、治ったという例すらもない。それに罹ったのが分かったのは、まだ最近ともいえる頃。仕事を切り上げ立ち上がろうとしたときに意識を失ったのだ。倒れる前から、体の異変は感じ取っていたであろうに。それから青竜はずっと床に就いている。体調がいい時などは起きて次期青竜の様子を見たりはしているが、それも長い時間ではない。緩慢に、着実に彼は死を迎えようとしている。それは、彼と契った琉央も同様である。 「……喰らって、しまおうか」 「え?」 ぐ、ととても病人とは思えない力で腕を引かれる。喰われる、というのは魂を彼に喰われるということで、彼の魂と同化するということである。知っていたのに、すぐ理解することができなかった。 抵抗もしなかった躰はいとも簡単に青竜に覆いかぶさった。 「いっそ、今のまま」 腕を掴んでいないほうの手が後頭部を捕える。そのまま深く口づけられて、琉央は眼を閉じた。 愛する男に喰い尽されたいという願いは、愚かなものだろうか。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− 黄帝 手に持つ皿を投げつければ、部屋の隅の女官が怯えた声を出す。それが一層苛立ちを煽り男は再び皿を手に取った。 今日は珍しく気分よく食事をしていたというのに。ただ一つの知らせが綺麗に並べられた料理を無残な姿に変えてしまった。 結婚。男、黄帝の脳裏にあったものはその二文字である。 先ほど入った報せは己の配下にあるべき青竜が妃を娶るというものだった。それ自体に異存はない。むしろ竜族の安定を考えれば遅いと罵ってもいい位だった。 黄帝が憤っているのはその点ではない。あたかも事後報告のように、青竜は所顕しの場で祝辞を賜わいたいといってきたのである。 本来であれば、黄帝たる己は妃を選ぶところから関わっているはずである。未だ幼い朱雀とまだ若い白虎はともかく、玄武は、もう何百年前の事か判然としないが、妃を選ぶところから、慣例通りにかかわったのである。たとえ、もう妃が決定しており、自分は「うむ」としか言わなくても重要だと彼は思っていた。 常々こんな七面倒臭い儀は廃止にしてしまおうかと思ってはいたが、実際すっぽかされると非常に嫌な気がしたのである。 それに第一、青竜は常日頃から気に喰わない。いつもいつも自分の思い通りにならない。この世界は、黄帝たる彼を中心に回っているというのに。 そう、結局は気に喰わないだけともいえるのだ。苛立ちを隠そうともせず男は料理の盛られた皿を力任せに叩きつけた。 だが、苛立ってはいても、いつまでも苛立っているわけにはいかなかった。当然だ、世界は彼を中心に回っているのだから。黄帝たる彼が機嫌を損ねればそれは天界はもとより人界にも及ぶ。 それに、青竜の所顕しにも行かないわけにはいかなかった。黄帝が配下の要請に応じないということは、それすなわちその種族は黄帝に反旗を翻したものとみなされたのである。 そんなわけにはいかなかった。青竜が治める竜族は天界で最大の種族であり最強の軍を持つ種族だった。敵に回すわけにはいかない。だからこそ先帝は竜王を四方将神に定めたのである。 また皿が割れる。飛び散った料理の汁が裾にかかって黄帝は顔をしかめた。黄帝もいろいろ面倒くさいのだ。慣例に縛られ、人の心は縛ることができず。苛々としつつもそれが分かっている、そのことにも苛々する。 色の薄い、白金の髪を憤然と揺らして、黄帝はその場を後にした。 |