「先生」「帯」「絵師」

「おいこら先生、起きろ!」
 容赦なく頭を揺すられて榊は重い目蓋を上げた。暫くぼんやりとして、再び目を閉ざそうとするとまた頭を揺さぶられる。
「客だ! あんたに!」
「……お客さん?」
 その言葉に、やっと脳が覚醒した。
「いやー失礼しました。私が榊晃哉です」
「すみません、お疲れのところ」
 頭を下げた女はなかなかの身分のようだった。貧富の差と言うのは着ている物に如実に表れる。事実晃哉を叩き起こした同僚の樋口貴彰は簡素な柄のない木綿の着流しだが、この女の帯はなかなか凝ったものだ。勿論その貴彰は既に追い出した。後は女の依頼を聞くだけだ。
 女の用件を聞いたところでさっさと引き払ってもらう。入れ替わりにまた樋口貴彰が入ってきた。
「あれ、まだ用?」
「いや、妖処関係の用かどうか聞きに来た」
 どうやら貴彰は一回戻った後またうちに来たらしい。思わずくつくつと笑いがこぼれる。
「何笑ってんだよ」
「いやいや、なんでもないさ」
 ひとしきり笑ってから女の用向きを話す。
「別に妖処関連で何かってわけじゃなく、ただ絵師としての私に用があったみたいだな。ただ、私の情報が妖処にしかなかったというだけで」
「そいつはよかった」
「そうだねえ」
 ぬるい茶を喉に流し込んで息を吐く。
「そういえば君の懇意にしている彼、どうしてる」
「どうも何も、相変わらず腹減ったとしか言わねえ」
「……真面目だねえ、彼も」
 ぽり、と貴彰が茶うけの落雁を食べながら頷いた。
「あんたも天狗の知り合いがいるそうじゃねえか」
「天狗?ああ、彼は……どうなんだろうな、天狗で合ってるのかもしれない」
「なんだよ、そりゃ」
 くすくすと二人で笑った。

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単発

「青竜、あがる」
 軽く応えを返すと、貴彰は何も言わずに縁側に寝転んだ。
「……なんだよ」
「寝るのは構わないが、掃除をしてから帰れ」
「分あってるよ」
 どことなく不機嫌そうな貴彰の頭の方に腰掛け、体を柱に預ける。
「何してんだ」
「山を見るだけだ」
「そうかよ」
 体をもぞもぞと動かし体制を整える。
「……寝に来ただけか」
 応えるはずの貴彰は既に寝入っていて、竜はふう、と溜息を零した。
 樋口貴彰は分からない男だ。自分は青竜ではないといつも言っているのに改めようとしない。自分が寝ることを必要としないのを知っているくせよくここで寝る。
 訳が分からない、と思う。分かる必要もないと思った。

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単発

 ばしゃり、白い足袋に泥水が跳ねた。それを一切気にかけず、ずんずんと大股で歩を進める。鼠に縦縞、締めた帯の粋さに看板を揚げはじめた夜鷹たちが一斉に溜息を吐いた。無謀に声をかけるものすらある。
「ちょいと粋なお兄ィさん、あたしと遊んで行かないかい?」
「悪ィな、届け物があるんだよ」
「そいつァ、その番傘かい」
「おう」
 一寸足を止めて振りかえったその手には緋色の番傘が握られている。それは男が持つには少々明るめだ。
「いい人のかい」
「そうだなあ」
 煮え切らない返事に女が呵呵と笑った。
「駄目だよォ、男がそんなんじゃ。逃げられちまうよ」
「ああ、だから今追っかけてるのさ」

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単発

「先生ー、居るかー」
 表から、微かに響いてきた声に榊は俯けていた顔をふいと上げた。今のは聞き違いだろうか、そんなわけあるまいと筆を置き立ち上がる。すれば、程なくして樋口貴彰とかちあった。
「なんだ先生、居たのか」
「居たよ。それより君こそ何の用? 私は今月一杯休むと言ったはずだけれど」
「ああ、聞いてるよ。ただ、こっちもどうしようもなくってな」
「何、私じゃなくちゃできない事かい? でもそんなこと」
「あるだろうよ、札だ、札」
「札? それじゃあ確かに、私じゃないと無理だなあ」
「だろう?」
 札、つまり呪符を作るのは体力も時間も喰う妖退治に比べればはるかにましだ。とはいえ、今は絵の依頼が立て込んでいる。どうしたものか、と頭を抱えた。察したように貴彰が呑気な声を上げる。
「ああ、別に絵の間かなんかに少しずつやってくれりゃあいいんだ。まだすっからかんってわけでもないらしいし」
「……なら、すこし待ってもらおう」
「ん、分かった。そう伝えとく」
 そうは言ってもやらないわけにはいかない。絵の期限は当然あるし、妖処の方も札がないというのはなかなか大変だろう。はあ、と溜息を吐く。
「そういや先生、今は何の絵をかいてるんだ」
「ん、地獄絵だよ」
「地獄絵! 得意じゃないか」
「いや、これがなかなか難しい。ま、君にはわからないだろうけど」
 そうだなあ、と貴彰がからから笑った。




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